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10 魔法のハンカチ

つい2週間ほど前、いつものように朝食の白いご飯をひとくち口に運び、奥歯で噛み始めた時です。「痛いっ! え? なあにこの痛さは?」
そういえば目が覚めた時からなんとなく右側の顎が重く、そこはかとない痛みが・・。歯を磨こうと歯ブラシを口に入れようとしても口が今ひとつ思うように開けられないし、あくびをするにも、大口開けておもいっきり気持ちの良いあくびもできず。あ〜っと口を開けようとすると耳の手前のところ、顎のちょうつがいのところが固まってしまったようで大あくびが出来ないのですから。で、ご飯を食べようとすると痛くて噛めない。ご飯が噛めない・・これは命にかかわる重大問題!

・・・ふーむ、いやいや、気のせいかもしれない、でも気のせいにしては食事の間中しっかり痛みが走ってた・・。頭の中でこの顎の痛みを否定したり肯定したりしつつも、さていつものようにピアノの蓋を開け、ゆっくりハ長調のスケールを弾き始めます。なんといっても明日はコンサート本番。少々体に緊張感を覚えつつもそりゃ当然、本番前です、予定調和ってもんねと解ったようなことをつぶやいて自分に言い聞かせながら練習を始めます。
が、ハ長調のスケールが片道4オクターブを一度昇り切らないうちにハタと手が止まりました。これは・・・この顎の痛みは気のせいでもお天道様のせいでもバリバリの醤油せんべいのせいでもキムラヤのさくらあんぱんのせいでもヤマザキの特大薄皮饅頭のせいでも夕べのスペインものの赤ワインの飲み過ぎのせいでもない!これはピアノのせい!

鶴や亀と競争するほどではないにせよ多少の年月を経てピアノを弾き続けていたこのわが身。いや不覚!演奏会本番前のこの日この朝、初めて気がついたのです。ピアノを弾く時に歯をくいしばっていた、と。

この数ヶ月の練習では特に脱力に注意を払い、腕の力を抜き、腕の重みをかけない軽いタッチでの素早い指の動きを中心に臥薪嘗胆(?)練習を重ねてきました。
強く安定したタッチを求め、どうしても肘や腕に不用に力を入れてこわばってしまい、そのためかえって指のコントロールを失いがちだった癖がかなり取れ、我ながらこっそり悦に入って、よしよしと軽いタッチでの響きを楽しめるようになっていたのに・・。

いやはや問屋はそうは簡単に卸してはくれないもの。腕の力が抜けたと喜んでいたのも束の間、実は特に何オクターブかの長さのアルペジオの連続のようなテクニック的に集中を必要とする難所を弾く際にはまさしく文字通りぐいっと強く歯をくいしばっていたのです。難所のみならず、どうも弾いてる間のかなりな時間、特に演奏会本番が近くなってからはテクニックや暗譜への不安や諸々の緊張感で私の顎は酷使され、相当な負担を強いられていたようです。
演奏会場に入ってしまえばそれなりに落ち着く当日と違い、初めて演奏会で聴いていただく曲を抱えての本番前のこの日、心理的な緊張感は相当なものだったのでしょう。突然起きた顎の痛みがそれを知らせてくれたのかもしれません。体は正直。

演奏会本番当日、練習で酷使された顎の痛みは幸いひどくもならず、既に弾き慣れた会場で、いつものように予定通り訪れるお馴染みの緊張感に包まれます。ステージに出る直前には心臓の鼓動が周囲に聞こえるのではないかという程ドキドキと速く強く打ち始め、これからなんとしてでも言うことをきいて欲しい大事な手のひらにはじとっと汗が滲みます。

さて、ここで助っ人登場です。いざ本番という時、たった一人でステージに出てピアノを弾かねばならない私を密かに支えてくれるのが1枚のハンカチなのです。故チャールズ・シュルツさんが描いて、世界中で愛された漫画「スヌーピー」の中にいつもずるずると毛布をひきずっている男の子、ライナスが出てきます。
私が本番前ぎゅっと握りしめ、ステージのお客様の前にエスコートしてもらい、汗に濡れた鍵盤を拭いてくれ、人目につかず、ピアノの弦のそばでひっそり見守ってくれるこのハンカチはまさにライナスの毛布。Safety Blanket、心の安定剤なのです。

ステージの袖からお客さまの前に出て深くお辞儀をし、椅子の高さを確かめて座ります。ドレスの裾を整え、ペダルを軽く踏んで確かめ、ハンカチで手を拭き、鍵盤をさーっと一拭き。ピアノの高音部の方の中にハンカチを置き、手を軽く振り下ろし、膝に置き・・・さて、弾き始め・・。

まるで赤ちゃんの頃から使ってるお気に入りのタオルケットやくたくたになったうさぎのぬいぐるみを決して手放そうとはしない幼い子のようですが、ハンカチを1枚持ってステージに出ることでぐっと落ち着くことが出来るのです。この魔法のハンカチ、魔法の効果がより有効性を発揮するにはちょっとした使い方の要領もあるにはあるのですが・・・。

大学受験の頃からその気配があったのは自覚していたとは言え、ピアノの練習が引き金となって本番前日見事「顎関節症」と診断されてしまった私もこうして1枚のハンカチを握り締め、無事本番を終えられたのでした。それにしても、魔法のハンカチを持ってステージに出ることも許されない、まさしく身ひとつでステージ上で勝負するバレエを踊る方達にとっての「ライナスの毛布」は・・・・・?

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